精神の劇




裕樹




 砂 〜1〜


  戯言ならばより美しいほうがいい

  私も貴方も見失ってしまったあの落ち葉の行方など 
  もうとうに考えなくなってしまったはずだ
  心に問えば答えるものもあるだろうとは
  賢者の言葉にすぎず愚者には似合わないのだから 
  愚かにも
  こうして構築されたあらゆる夢を
  突き崩しては
  また風に乗って逃げてゆけばいい

  私たちの自由という
  小さな檻の中に花を生けよう
 
  明日の夢は幸せでありますようにと
  祈りながら




 砂 〜2〜
                          


   朋よ

   私たちの自尊心など
   風の前にあっては
   あの旗なのかもしれない








 砂 〜3〜
                 

  螺旋を描いて
  君の詩が僕に語りかけてくる

  孤独という愉悦を得て
  衝撃という悦楽を飲み干して
  真っ二つに分かれてしまった僕と君を
  再び繋ぎ合わせることは困難かもしれないが 

  いつかこの未来という切望の中で
  お互い砂礫に埋もれながら
  同じ塵になればいい

  統一の予感と確信は
  ときに悦びとなり
  絶望となるから

  ああ

  君よ
  またも美しい言葉で僕を惑わせてくれ
  堕天使の翼のように
  ひどく淫らに




 砂 〜4〜
                          



  私の影がゆっくりと落下していく
  さらさらと音を立てながら
  落下していく
  幾つも粒子になり
  私の影と
  私の中に潜むあらゆる感情と

  それから
  私の魂というものが
  ゆっくりと細い筒の中を通って
  地面に寝そべっている

  ああ

  そうして気がついた誰かが
  私の天地を反して
  また私は落下する

  同じ道を辿って
  違う重なりを得て
  私の粒子は誰かの時間を
  時々刻む
  ゆっくりと早くに





砂 〜5〜
                  

  戯れだった

  とても美しくきらびやかな戯れに憧れて  
  幼い私は扉を開いた

  向うは砂礫の国であったというのに
  私はその先に花が咲くだろうと
  ずっと思っていた

  そんなふうにして
  私は詩を詠んでいた

  ずっと詠んでいた






 「砂 〜 1999/06/02」


  1969

  目覚めの時だった
  点滅し消滅した星空の元に産まれたのは
  少しの誤解と
  僅かの間違い
  そうして限りない愛情という名前の祝福

  「お前に名前を与えよう
 
   自由と
   樹木の象徴と
   子であるという証を残し
   吾が子であることを此処に宣言せむ 」

  創造の父はその日
  若い心を一つ決済し
  新しい魂を得たのだという

  海が

  灰色の朝に私は生まれた
  1969
  私に与えられた四文字の数字は一つの記号であり  
  一つの象徴でもあった

  自由と
  樹木の象徴と
  子であることの証を得て
  私は目覚た

  見渡す限りの砂漠の中で
  水を探す愚者になろうとは
  父は知らなかっただろう
  生れ落ちて最初の記憶が
  喉が渇いている、ということだったとは
  誰にも告げてはいなかった

  ゆっくりと零れ落ちてく私の何かを
  果てもない砂丘で私は今も感じている
  上下を返す賢者の居ないところでは
  天上に還る術などないのだった

  風に翻弄されながら
  時に流されながら
  目を閉ざして
  口を閉ざして
  何も聴こえないふりのまま
  朽ちるのもいいだろうと

  思った

  1969

  私はここに産まれた
  一つの生誕が齎した奇怪なまでの
  堕落の証拠

  ああ

  賢者たるものよ
  美しい詩人よ
  私の中に眠る被虐が悲しい快楽を齎し
  今日また一つ産みだしてしまった
  どうしようもない心の一つを
  産みだしてしまった

  精製されないままのオイルは
  好まれないものだから
  私はそれからまた
  魂を削らねばならないことを
  誰にも言えるはずもなかった

  それから私は
  朋に手紙を書くのだ

  砂上の城に私はまだいるのだ、と

  1969

  自由と言う清らかな不自由と
  樹木という伸びやかな怠惰と
  子という名の私を祝福した愛情は
  今も揺れている

  私を呪うように




                         1999/06/02
           精神の劇 夕暮れに君を尋ねるより
 
 



 巻末に

 朋はみな饒舌だった。
 美しい言葉をたくさん知り、優しい慈愛に満ちた世界を私に見せてくれた。どれも、私という核の中にはないものばかりで、私はそれに憧れた。
 枯渇している。
 そういうざらざらとした感触が、私を突き動かす。
 どうしようもない衝動があって、(まるで若いときのとめどない性欲のように!)綴らないではいられない。
 口さがない人がそれを自慰と呼ぶ。
 なれば、私は美しく淫らで毒々しい自慰がいいと思う。
 いわば私の詩文は私の内臓なのだ。
 私の臓物を、だから好まない人は私に触れてくれなくて良いという拒絶が、どこかしらにある。
 時にそれは、読者である私でさえも強烈に拒絶されていると感じるときがある。
 それを個性だというつもりはない。
 ことさら物事を誇張して言うつもりもない。
 言葉であるなら、伝わるべきだという人々もいる。
 であれば、愛する人の温もりなど欲することは愚かであるはずなのに、言葉だけでは足りないという。
 そういう傲慢を、私は愛している。
 私の詩を構築するのは、人間ゆえの傲慢そのものであると私は自覚している。
 その自覚が、今の私になる。
 どうしようもないほどの、自虐的な私になる。
 そうして、どうしようもないほどに、あなた方を愛してしまっている私がいる。


 平成14年06月18日  裕樹