夕暮れにひとり



 携帯電話を持ちはじめた時は、確かにあたしは鬱陶しいと感じていたはずだった。
 ともだちから電話がかかってきても無視をしたし、留守録を確認するのも、かけなおすのだってごめんだった。
 でも、あたしはMからの電話をいつしか待つようになっていた。
 かつての体重は48キロ。
 それから凄くふえて89キロ。Mと出会った時は60キロまで落とした時だった。
 恋をしていた。
 Mにきれいだと思われたかった。
 でもあたしは同時に、Mに好かれるわけなんかないって、そう思っていた。
 臆病な恋のはじまりだった。
 Mが私のことを本当のところどう思っていたのかはわからない。
 私の気持ちを知ってかしらずか、Mはよく私を誘い出した。Mにはその当時すでに彼女がいて、彼女も私の存在をしっていたのだった。
 だけれど、彼女は私に関しては心配などしていない、そう言った。
 彼女は私の頭からつま先までをじろりとみつめ、それからいったのだ、「まゆみさんとなら遊んでもいいよ」、と。
 私は彼にとって女でありえない存在、そう彼女ははっきりと言い切ったのだ。Mにはそのことは伝わらなかったようだったが。
 私の過食の日々が始まるのは、それからもうしばらく後となる。
 
 
 Mが誘いをくれれば、私はたいていどこへでもついていった。
 Mはもともとアウトドアが好きだが、Mの恋人はあまり好きではない。山登りや釣りなどの趣味ごとには、Mは必ず私を誘った。他にも同性の友人が多く居たはずで、どうして私を誘ったのかはよくわからない。けれども、その理由など、私にはどうでもよかった。
 結果的には、Mの彼女よりもMと一緒に居る時間が長くなる、ということが何より私を喜ばせる要因となっていた。
 きれいになりたい、という気持ちはそれまでの私を色々と変えてくれた。
 もともと過食傾向があり、偏食だった私は、気持ちを新たにして食生活の見直しをした。料理なんて好きじゃなかったけれど、一緒に山登りや釣りに行くときに弁当をもっていくようになった。Mに美味しいといってもらいたいばかりに、それは一生懸命だったと思う。
 着る服も、だっぷりとした体型をすっぽりつつんでくれるような服が好きだったが、身動きがとれるような服を着るようになった。Mと遊ぶには、それまでの服では危険であり、動きにくかったからだった。
 好きというきもちと、尽くしているという実感は私を生き生きとさせてくれる。ダイエットをしているという意識もないまま、あれほど必死だったはずのものが日々楽しいものとなった。
 どうしたらかわいらしく見えるかしら。
 どうしたら素敵に見えるかしら。
 スリムで背の高いMと見合うような雰囲気になれたかしら。
 毎日鏡を見て、ばさばさとただのばしっぱなしだった髪も束ね、化粧気もなかった私が薄化粧をして、笑顔の練習をする。
 Mの後ろには彼女が居るのはわかっている。帰ってゆく場所は彼女のもとなのだということも自覚している。
 それでも。
 それでも、淡い期待を捨てることなんて出来なかった。
 
 Mはとても優しかった。
 知り合いの男性も、友人たちも、そうして見知らぬ男性も、いつもうつむきかげんで、もごもごとしゃべっていて、そうしてずんぐりむっくりの私には見向きもせず、時には周りの女性のための引き立て役だよな、と言っていたことも知っている。
 私自身がつとめてあかるくする、などということは考えなかった。目立たないように、ただただ目立たないようにと引っ込み思案になり、あまり表立って出て行くことはなかった。
 すべてはこの体型のせいだと思い込んでいた。
 あるとき、人数あわせのために合コンに私が呼ばれた。そういうときは私が会費を払うことは無く、他の女性たちが払ってくれることになっていたから、気晴らしにと時々出かけるようにしていた。いや、それでも華やかな彼女たちを羨みながら、どこか小さな期待をかけていたのかもしれない。こんな私でも好いてくれる人はいるんじゃないか、と。
 その日も、そうして私ひとりだけが話すことも無く、カラオケでもりあがってる場の一番すみっこで座っていた。誰も私を気にかけるものはない。
 気楽であり、孤独な瞬間。
 そのときだった。
 Mは「歌わないの?」と私に声をかけてきた。
 私は驚いた。そうして、「え、歌ったことないの」と、即座に答えた。
 Mが私に話し掛ける様子を見て、一緒に居た女性陣(と、いっても友人たちなのだけれど)が、「まゆみってばいつも歌わないんだもん、今日は歌わせるよ、ほらマイクもって!」と、私を彼女たちの中へひっぱりこんだ。
 何時もと違うことに戸惑いながら、みんなと大声をあげて、私ははじめて歌い、初めて話した。Mはことあるごとに私に話し掛けてきてくれて、みんなとの会話をつないだ。
 そういえばこういう席で笑ったのも初めてだった。
「まゆみぃ、今日楽しそうだったね!」
 友人たちはよかったね、と私の肩を叩いた。
 いつもならば、やっかみのひとつも胸の中にわくのに、不思議な爽快感があった。さりげなく人と人をつなげてしまったMを、私はきっと一瞬のうちに好きになってしまったに違いない。

 Mが私のアパートの近くに住んでいる、ということをしったのはそれからほどなくしてからだった。
 コンビにで買い物をしているとき、ばったりとMと逢った。
「ひさしぶり!」
 と、Mは笑顔を私にくれた。
 立ち話をしていたが、ゆっくり話そうか、と喫茶ってんへ誘われお茶を飲んだ。男性と二人でお茶を飲んだのも、初めてのことだった。
 コンビニで私がサラダとウーロン茶を買っていたのをみて、Mは、「食事はそれだけなの?」と言ってきた。
 私は何気に、「ダイエットしているから」と答えた。
 その当時、私は痩せようと頑張っていた頃だった。Mは驚いたみたいに、
「だめだめ、サラダだけじゃ痩せないよ。きちんと食べないと」と、言った。
 Mは栄養士の勉強をしていることを話した。私の食生活について相談にのってくれ、長く話、そうして携帯の電話番号を交換してわかれた。
 二度目がないと思っていた人との出会いを、連続したものにしてくれた携帯電話に、私はそのときひどく感謝した。
 音楽の趣味、読み物の趣味、気が合うところを一つ一つ見つけ、Mは私を友人と言ってくれるようになり、友人として彼女に紹介してくれた。
 彼女は痩せていて、美しい人だった。

 
 Mの彼女のようになりたい、と真剣に思い出したのは、彼女からのさげすみの言葉をうけてからだったにちがいない。まゆみさんとなら遊んでもいい、わたしとなら、わたしと、なら。
 私だって、女なんだ、と何かに火がついたのだと思う。
 Mは私の髪型の変化に気がついてくれた。
 化粧が変わったことにも。
 服装が変化したことにも。
 一つ一つ自信を私に与えてくれる。発見してくれる、ということはもしかすると、という淡い期待さえ抱かせる。
 気がつくと、私の体重は54キロにまで落ちていた。無意識のうちに、それにMと出歩くことが運動不足の解消にもつながったにちがいない。
 私はMの隣にいることが当たり前のようになっていた。Mの友人たちも、私たちをコンビだと言う。心地よい響きだった。恋人、ではなくても、セットで見てくれる。彼女への優越感を覚えずには居られなかった。携帯電話で、Mと長話をする。たいていがどういう食べ物が体にいいか、どういう調理がよいか、という話ばかり。それでも私は幸福であり、有頂天になっていた。
 そうしてそれは同時に、こんな幸福が長く続かないことも意味していた。
 
 私の体重が52キロになり、それをキープしはじめたころ、Mの結婚式の日取りが決まった。Mから直接私にそれは伝えられた。
 わかっていたことだが、ショックは隠せない。努めて笑顔をつくると、おめでとう、とだけ言った。
 その日の晩だった、Mの彼女から私は呼び出された。
 指定された喫茶店へ行くと、彼女は私をにらみつけ、開口一番こういった。
「もうMとは逢わないようにしてほしいの」
 私は一瞬身が凍るような気持ちになった。
 何故?と思いながら、来たか、とも思った。
 なるべく冷静を装いながら席につき、それからこういう。
「なにか、気に障ること、したかな」
 変なせりふだったが、それしか思い浮かばなかった。
「あなたが気に障ることをしたわけじゃないよ。あなたのためにも言ってるのよ」
「友達として、遊んでただけだよ」
「違うでしょ」
 見透かされて、血液が体中を駆け巡った。
 そのあと、彼女が何かを言っていたようだが何を言っているのかわからなかった。Mのためにも、あなたのためにも、という言葉が幾つか繰り返された。彼はあなたにとっての友人以上にはなれない、あなたが痩せるためのことを手伝いたいと言っていたのよ、ともいう。それがどういう意味なのかも、私には聞こえなかった。
 やがて、沈黙が訪れた。
 彼女はそれ以上は責めず、テーブルの上に珈琲代を置くと、「それだけなの」といって店を後にした。
 私は震えていた。
 何にショックだったというんだろう。
 とにかく落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ、と言い聞かせた。
 頭の中で、ありもしないMと彼女の会話が浮かぶ。
(まゆみって子、痩せようとおもって頑張ってんだって。でも食生活も悪くてかわいそうなんだよ)
(へえ、そうなんだあ)
(なんかかわいそうだからさ、痩せさせてあげようかとおもって)
(そうだねーあれじゃねーひどいもんねえ)
 そんな会話が交わされていたんじゃないか。
 友人だなんていって、私を馬鹿にしていただけじゃないか。
 でも落ち着いて思えば、私自身、彼女を出し抜こうという気持ちがどこかに存在していたはずなのだ。ただ、誰かのせいにしてしまうのは、心地が良かった。
 私は遠慮なくすべてのことをMと彼女のせいにして、それから過食の日々が始まった。
 Mのためにきれいになろうとおもったのだった。
 Mのために痩せたいと思ったのだった。
 目標がいなくなってしまった。目標がなくなってしまった。いいやなにより、小さな淡い希望すらもなくなってしまった。
 私は詰め込めるだけの食べ物を食べ、食べ過ぎては吐き、またはおなかを壊して、それでもまだ食べ続けた。
 1ヶ月の間、Mからの電話も、他の友人からの電話も出ず、大学にも行かず、ただひたすらアパートの中で食べ物をたべ、なくなれば買いに行きまた食べてを繰り返していた。
 やっぱり私なんかは駄目な人間だ、ということを思い、確認し、実感し、の繰り返しの日々。
 やがて私は、自宅でそのまま倒れてしまった。
 過食という暴食の末の、胃痙攣で意識を失ってしまったのだった。

 
 気がついたとき、私は病院に居た。
 大学に来ないことを心配した友人と、連絡が取れないことを心配したMとMの彼女が私の家にきて、倒れている私を見つけたのだそうだ。そういえば鍵もかけない生活をしていた。荒れ果てた生活だった。
 Mと友人たちはどうして?を繰り返すだけだったけど、Mの彼女は何も言わなかった。ただ、ひどく怒ったような目をしていた。
 やがて、Mの彼女はみんなに出て行ってくれるようにたのみ、私の枕もとに座ってこう切り出した。
「あのね。まゆみさん。私はただ嫉妬のために逢わないで、と言ったわけじゃないんだよ。Mにもね、言ったの。
 まゆみさんはMのことが好きなんだよ、って。
 Mは友人だと言って聞かなかった。Mはまゆみさんの気持ちなんてちっとも考えなかった。だからあたしは逢わないでっていったの」
 彼女は私のほうをじっと見ていた。
「あなた、前向きにならなきゃだめだよ」
「前、向き?」
「Mは、あなたを女性とは思っているけれど、恋愛の対象にはしていないわ」
 ああ、またひどいことを言いに来たのだ、私は思った。ふとんをかぶってしまおうとする私に、彼女は続けた。
「逃げちゃだめだよ!ねえ、きいて」
「いや!」
「だめだよ!あなたは立ち直らなきゃ!こうやっていつも誰かのせいにしていきていくの?」
 その言葉は胸を刺した。

 ああ、私は妬んでいた。
 そうしていろんなことを無かったことにしていた。
 彼女がMに「まゆみさんとなら遊んでもいいよ」といった言葉のあとには、こうつづけていた。「まゆみさんは、もっといろんなこと愉しまなきゃ。私とも遊んでね」と、でも私はその言葉は聞かなかったことにしていた。
 もともと、私のダイエットの手伝いをしてくれるといったのも、Mではなかったか。
 体を動かす遊びにさそったのもそのためだったろう。
 友人たちが合コンに私を誘うのは、引きこもりがちな私を勇気付けようとしてくれたからなのだろう。
 でも、それらすべて、私はねたましかった。憎らしかった。
 私にはないものを持つ人々からの、哀れみだと思っていた。
 ゆっくりとそれらが融けてくると、こんどは傲慢なまでの気持ちが起き上がった。相手に妬まれたい、というような醜い欲望はどこかになかったろうか。
 私はうなだれた。
 Mに恋をしていたのだろうか、とも思う。
 恋をしたふりをして愉しんでいたんじゃないだろうか、と思う。
 恋人がいるようなふりをしたかっただけではないだろうか。もしMにさようならをいわれても、Mにはもともと恋人がいるのだから、というのを言い訳にしていた。
 卑怯な私に気がついたのは、彼女だったのだ。
「美味しく、たべなきゃ」
 そういって笑うと、彼女はポケットの中から小さな包みを出した。
「内緒よ」
 あけると、クッキーが一枚だけ入っていた。
「焼いたの」
「あなたが?」
「うん」
 彼女の焼いたというクッキーを口に入れると、すっとした甘味が広がった。私は泣いていたような気がする。
「ごめんね」
 彼女は言った。
「私もちょっとは嫉妬したのかも」
 その言葉を聞いて、私は彼女の顔を見た。いたずらっ子みたいな顔で彼女は笑った。
 ああ、負けたんだな、と私は思った。
 それから、私はなんだか笑いたくなってきた。
 私がくすくすと笑い出すと、彼女も一緒に笑い出した。やがて二人は大声で笑って、驚いた友人とMが病室に入ってきた。
 理由を問われて私たちは、「嫉妬してたのよね」といって笑いあった。
 
 携帯電話を持つことを嫌ったのは、誰も電話してはくれないだろう、という寂しさがあったからじゃないだろうか、とも思う。
 その寂しさに入り込んだMの存在を、私はようやっと捨てることができるような気がした。
 そうしてMの彼女にたいして持っていたわだかまりもゆっくりとけるような気がした。
 ようやく、私は私のためにきれいになりたい、と思えるようになった。
 彼女みたいに。

 1週間後。私は退院した。
 部屋へ入ると、友人たちが片つけてくれたのであろう、とてもきれいに整頓されていて、あの倒れる直前の乱雑さ、食べ散らかしのあとは消えていた。
 ふと見ると、冷蔵庫の扉に紙が一枚張ってあった。
 友人たちの携帯の電話番号の一覧だった。
 こんなものなくとも、携帯の中には同じ番号が登録してあるというのに。
 私はなんだかおかしくなって、笑った。
 ふと見ると、窓から夕陽が入り込んで世界を朱色に染めていた。
 私一人の影が壁に伸び、天井までも支配しようとしている。

 今度は、大丈夫。

 自分に言い聞かせて、私は携帯を取り出し、登録を呼び出す。
 母親の声が聞きたくなった。元気だよ、といいたかった。
 元気だと言って、自分を安心させようと思った。

 夕暮れの中で、私の中のかなしい気持ちが溶け出してゆくようだった。